photter's photo diary

日々の暮らしで感じた「心に一番近いコト」を写真と言葉でつづります。

やめろと言われても

一休とんち小僧の正体


上野毛にある五島美術館iPhoneを使っていたら、

「展示室では電子機器を使用しないでください」と係員に注意された。

これまでいくつかの美術館、博物館に行ったけども、一度も言われたことが無かったので、少々驚いた。


理由を聞くと、

「決まりなので理由は分からないから受付で聞いて欲しい。」


理由を確かめる。すると、スマートフォンで撮影している人と見分けがつかないので使用を断っていると言う。


撮影は音が出るし、動きで撮影していることなんて分かりそうなのにな、と半ば納得できない気持ちもありながら、周りで使っている人が居ると「撮影OK」と勘違いする人もいるのかもしれない。そう思い、引き下がった。


私はiPhoneで何をしていたかと言うと、展示物に関する検索だった。


例えば江戸時代の書籍に押されていた「長島町大野屋惣八」という印。一体どこの誰だろうと思うわけですが、調べてみると江戸時代後期から明治時代の貸本屋さんだと分かる。その書籍が京都大学に寄贈されて、展示のために貸し出されている。どんな風に人の手に渡って今ここにあるのか知ると時の重みを感じる。


結局、展示室では使用禁止なので、いちいちロビーに出て調べることにした。疑問に思うことをその場で調べられるような仕組みが美術館、博物館に欲しい。学芸員が常駐しているわけじゃないし。f:id:photter:20151206111934j:plain

闇の中でしか光りには気付けない

先のことを考えると不安になることがある。

いまある状況。生活。

暮らしていけることすら脅かされるかもしれないからだろう。

 

妬み。他人を羨ましく思うこと。

それ自体が原動力になることはあるだろう。

でも、永く続かない。

なぜなら他人と比べても、

それだけでは自分の現状は変わらない。

自分がどうありたいのか。それが大事。

そもそも他人も毀誉褒貶。変わり続けるしね。

 

悔しいと思うこと、苦しいと思うこと。

それ自体が生きている証。大切な心模様。

 

僕がいちばん恐ろしいと思うのは「何も感じないこと。」

心のスイッチを切ること。

確かにそうしたら傷つきはしない。苦しいとも思わない。

だけど楽しいことも、嬉しいことも同時に失う。

 

「闇の中でしか光りには気付けない。」

 

その言葉の本当の意味を知ったときは、

もしかしたら、もう遅いのかもしれない。

でもね、

光りを見つけたのなら、それは未来を見つけた兆し。

悲しいことは決して苦しいことじゃない。明日の原点。チャンスなんだ。

 

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ミクロコスモスはどこにある?

先日、茶人の武者小路千家・千宗屋さんと写真家の上田義彦さんの対談に

行ってきました。

 

千さんが茶室という場とその所作、

もてなしに関して「主客」という言葉を使って説明するほど

私には茶室の説明なのに、

小劇場での「お芝居」のことを語っているように感じました。

 

茶室という薄暗く狭い空間なんだそうです。

正座は肢体の自由を奪うので、膝を突き合わせることになる。

薄暗い空間では主人の茶を入れる所作が際立ち

主客の意識が集中する。

そうした所作の繰り返しにより主客が一つになったり離れたりする。

場合によっては主客が逆転する。

 

どうですか?

「芝居」と全く同じではないでしょうか。

 

小劇場は薄暗く、狭いです。

「全席自由」とは言いますが、本当に自由には動けません。

ある意味で、席に磔にされます。

舞台上にいる主人の演者と客は必ず向き合います。

 

光は演者にだけ照らされるので、

そこに居合わせる人の意識は舞台に集中します。

ある場面では主人公に感情移入したり、

別の場面では俯瞰でみることがあったり。

ときにはお客さんが主人公になることもある。

 

これはお芝居にとどまらず、

歌、踊り、全ての演目に共通すると思います。

 

私が小さなライブハウスや小劇場が好きなのは、

もしかすると狭い空間で

人と繋がることを体感したいのかもしれません。

 

人と繋がることで世界と繋がる、宇宙と繋がることが

できるからなのかもしれません。

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再生

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ネットで音楽をダウンロードする時代になって久しいですが、

最近はレコードやカセットテープが見直されているようですね。

 

一度は枯れた技術でしたが、

誰でも使えて、手に取れる形あるものというのが、

結局残るのかもしれません。

 

花が咲く。真っ盛りのときが美しい。

写真を始めた頃は、特にその様子を映し撮りたいものだ、

と考えていました。

極端に言えば、花は枯れると汚くなる、とさえ思っていました。

 

でもこれは枯れているのではない。

生まれ変わるための準備なのだと思うようになりました。

 

それは月の満ち欠けに喩えられるかもしれません。

細い月は次第に満ちてゆき、また細く。やがて新しい月を迎える。

 

再生。また生まれ変わるために花は散るのだと。

 

まだ見ぬ未来に思いを馳せる夜。

こんな夜は、レコードに針を落とすと心地好いでしょうね。