photter's photo diary

日々の暮らしで感じた「心に一番近いコト」を写真と言葉でつづります。

写真は記録なのだろうか?

 

 

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(Beijing Airport 2009)

 

写真は記録だというが、

世の中に出て来ない写真は本当に「記録」と言えるのだろうか?

 

二週間も前のことだけど、クーデルカ展に行ってきて思ったことだ。

 

プラハの春ソ連軍の侵攻と戦う歴史的な出来事だが、遠い昔の離れた国の他人事のように感じたせいか、映画のワンシーンのような格好良さを感じた。

それは、ドキュメントというよりも何か演出されている広告のポスターのように。クーデルカの作品群「劇場」の延長線上にあるものだと思う。

 

しかし、これもまた、世の中に作品として披露されるから、それを観る私に何かしらの感情をかき立てるのだ。

 

きっと天安門事件の時だって、中国人が撮った写真がいくつもあるはずだ。なぜなら、歴史的な瞬間を捉えようと思う人が必ず居るからだ。

しかし、それらはきっとネズミ一匹漏らさない中国共産党の支配下では、この先数十年の間は世の中には出てこないだろう。

私が生きている間は難しいかもしれないが、クーデルカの「プラハの春」の作品展が1990年にチェコで開催されたように、いつか時が来ると思う。

 

写真は本当に記録と言えるのだろうか?

結局世の中に出てこなければ、

有るのか無いのか分からない架空の存在でしかない。

プラハの春を観ながら、世に出す意味を考えた。